自然(しぜん)と、自然(じねん)

著者: 藤橋 雅尚 講演者: 泉 美治  /  講演日: 2006年07月20日 /  カテゴリ: 講演会  /  更新日時: 2010年12月05日

 

化学部会(20067月度)研修会報告

  時 : 2006720日(木)
テーマ : 講演会

  

講演 自然(しぜん)と、自然(じねん)

大阪大学名誉教授 泉 美治 博士(理学)
元 和光純薬、大阪大学蛋白質研究所長、触媒学会会長
現 現代における宗教の役割研究会理事

研究における発想の瞬間と、仏教における悟りの瞬間が似ていると感じたことが、常識という執着から離れて新しい見方を開く事ができ、発見につながったと考えている。例えば「新緑は美しい」ということは、常識の色眼鏡をかけ凡庸な眼で見ているから美しいと感じるのであって、その色眼鏡を外す努力をしないと美しいだけでその中身に眼が移っていかない。別の例を考えると、中世では天動説が常識であった。その常識を外したところから、地動説の発見がなされたと言える。本日はまず仏教的な考え方から入っていきたい。

自然(しぜん)という言葉は、明治以前はなく西洋的な考え方が入ってきて生まれた言葉である。自然(しぜん)という言葉が生まれるまでは自然(じねん)しかなかった。自然(じねん)とは仏教用語であり、一切の気を離れてひらいていることを言う。先ほどの「新緑は美しい」以外の例では、ここにコップがあるがこのかたちを見てコップであると考えるのは常識の色眼鏡で見た世界であって自然(しぜん)と呼んでいる。もしこのコップが、トイレに置いてあればコップではなく検尿容器にみえる。底に穴が開いていれば植木鉢である。コップはコップとして生まれてきたものではないという考え方が、自然(じねん)である。子供の時に教えられて知恵がついた範囲内で考える事からの脱却が必要である。

仏教的な考え方には(私は)ひやかしから入った。人間は創造出来る生き物というが、実際は創造出来ないのであって、出来たのは結果だけであると考えていた。企業から大学に移るとき、大学の研究と企業の研究はどこが違うかについて悩んだ際、悟りと発見の瞬間が似ていることから、理学部の研究とは「哲学を化学や物理で表現すること」と考え、仏教哲学をベースにしようと考えた。このため、インド哲学を研究していた井上哲也先生から大乗仏教の哲学を学んだ。

「唯識(ゆいしき)」は重要な考えかたであるが、その輪郭を理解することに20年を要した。(注:唯識とは記憶の投影と言え深層心理的側面という意味もある)。また般若心経にいう「空(くう)」とは、無限の可能性を包蔵した状態である。空(くう)説明は難しいが数字のゼロに似ている。1000という数字の一桁目の0は、無いという意味ではない。二桁目の0は、一桁目があって初めて意味を持つが0でない。0は使い方で無限の可能性を持っており空(くう)と似ている。学問の常識を一旦「空(くう)」に移し、その後専門の常識に戻らないで、専門外の色々な常識から何かを見つけることが発見につながる。

不斉反応の触媒を発見するのに、この考え方が役に立った。不斉反応という言葉の概念にとらわれず言葉の裏側にある概念に敏感になったことが発見のきっかけである。例えば東海道線も新幹線も、いずれも東京につながっているから東京線という言葉にしてしまうと、対象の本質が見えなくなってしまう。
不斉反応という言葉にとらわれず、エナンチオ選択的な見方(不斉の要素を持たない化合物に光学活性を持たせる)と、ジアステレオ選択的な見方(不斉の要素を持つ化合物に対して一方のジアステレオマーを優先的に起こさせる)で進めたことから真理に行き着けた。

当時、絹にパラジウムを付けた触媒で不斉水素化反応を研究していたが、違う絹を使ったとたんに再現性がなくなった。再現性の出ない原因が分からず非常に苦しい期間が5年ほど続いたが、グルタミン酸を加えることで劇的な変化を遂げた。これは唯識でいうと、触媒の活性をその出っ張りや穴に起因するだけではなく、触媒表面を部分的にエナンチオメックに考えたことによっている。

唯識を考える場合、真理をめざす際に実験式として○○定数を扱うだけで終わってはいけない。その定数が極端に変化したらどうなるか、それを考えることから発見が生まれる。

Q 自然(しぜん)と自然(じねん)、常識の色眼鏡についてもう少し説明して欲しい。

A ピカソの絵は自然(じねん)では無いだろうか、リンゴは赤くて丸いといことから脱却したところに立っていると思う。

                         文責 藤橋雅尚


著者プロフィール 著者
> 
主な経歴
> 
資格
> 
その他
>