女川町の状況
環境研究会 東北研修旅行 参加者報告
日 時:平成24年3月20~21日
場 所:宮城県
女川町の状況
石塚幹剛 技術士(建設部門)
1.女川町への道
仙台市から三陸自動車道に入り鳴瀬川を渡り、2車線区間(4車線化拡幅工事が進行中とのこと)を進み国道398号(対向2車線)(石巻街道)を東進し、石巻市を経由して女川街道にて女川町に入った。バスの車窓からは津波で倒壊はしなかったものの人の住める状態でない家屋がポツリポツリと建っている。がれきや廃車の山が何か所も目に留まる。
石巻港付近の被害の大きさは一見するだけでわかる。貞山堀(ていざんぼり)を閖上(ゆりあげ)地域まで津波が遡上し、石巻港一帯は壊滅状態となった、とのことであり、路面は段差でガタガタの区間が多い。大きな「鯨の大和煮の看板タンク」が中央分離帯を占拠している。
石巻市と女川町を結ぶJR石巻線の線路が錆びついた状態のまま道路の下方を走っているが、沿岸地域は1m以上もの地盤沈下を生じており、高潮時には浸水する危険があるため運行されていない。途中の駅舎もほとんど原形を留めていない。
女川町に入る手前の渡波地区では遠浅のきれいな海岸風景が望まれた。この地域も津波で大きな被害を受けたが、新装のイオンスーパーセンターが賑わっていた。女川町の人々は3kmもあるここまで買い物に来なければならないとのことである。しばし走ると、更地となってしまった女川湾沿岸地域(旧市街地)にポツンとツインの一方だけが残されたマリンパルが出現した(写真-1)。
2.自然の脅威を感じた沿岸部の状況
女川町に入り、高台(標高約10m)に設置されている町立女川病院(女川町医療センター)の駐車場から、女川湾や壊滅した市街地中心部を眺望した。献花台が設けられた高台の駐車場から前方の鏡のような海面を眺めていると、この高台を3m以上も超える波が押し寄せたとはとても信じられない。現実に高台に建つ病院の一階部分約3.5mが浸水し、駐車場に設置されていた銀行のATMが押し流されて、新たに設置された現実の姿がそこにある。みぞれのちらつく中での視察であったが、寒さばかりではなく、自然の恐ろしさに身の縮む恐怖感を感じ、人間の力には限界があると実感した。
おごりは決して許されない。この尊い経験を次に生かさなくてはならない、真に自然と向き合うためには、我々技術者は何をすればよいのか、真剣に考えなくてはならない。お亡くなりになられた方々の悔しさを思うと背筋が寒くなる思いを感じ、献花台に向かって手を合わせていた。
前方に見える5階建ての鉄筋コンクリート造りのビルのガラスは全て打ち破られ、見るも無残な姿を露呈している。残ったマリンパルの横には屋上を山側に基礎部分をさらけ出したビルの残骸が横たわり、交番のビルやどこかのビルの基礎部と思われる大きなコンクリートブロックが波打ち際にさらされている。とても信じられない姿が目の前に広がっている。
女川町は金華山沖を眼下に望む、宮城県の東端牡鹿半島の付け根に位置する人口約1万人の町で、町全域が南三陸金華山国定公園に指定されている。沿岸の市街地や漁村集落を除く大半が丘陵地帯で、北上山地と太平洋が交わる風光明媚なリアス式海岸を形成しており、日本有数の天然の良港、女川漁港を有している。町の総面積は6,579ha(65.79㎢)で82%が山林という、普段は心和む地域であったろうが、反面では残酷な自然の驚異というリスクとの付き合いであったのだ。
3.被災の状況
今回の東日本大震災により、女川町はM9.0震度6弱の揺れと約14.8mの高さの大津波に襲われ、津波の最高到達地点は標高20m程度の内陸部(目撃者の証言:河北新聞より)に達して、甚大な被害を受けた。
人口に対する死者と行方不明者の比率の高かった、東北3県と宮城県の市町村別にみると、女川町の人的被害の大きさが突出し、避難すべき人の二人に一人の比率で津波による死亡者が出たことになる(資料-1)。
資料-1 東日本大震災における死者・行方不明者数及び対人口比率
阪神・淡路大震災時の兵庫県[死者(6,402人)+行方不明者数(3人)]÷1990国勢調査人口(5,405,040人)=0.12%
(出典: 県別は警察庁緊急災害警備本部広報資料、宮城県市町村は宮城県災害対策本部資料(H24.3.11))
高齢者の比率が高いこともあったが、恐ろしく高い比率であり、被害は女川湾を囲んで市街地中心部に広がっている。特に、女川港に面するマリンパル女川・市街地周辺、女川駅・女川町役場周辺等、町中心部は津波により壊滅的な被害を受け、沿岸部では1m以上の地盤沈下を生じた(資料-2及び写真-2)。
資料-2 住宅被害状況(h23.11.1現在)(出展:女川町復興対策室
写真-2 女川町の旧市街地とJR女川町駅跡
また、住宅被害では、被害なしは4,424棟の内11.3%と殆どが被害を受けている(資料-2)。発災前の町の高齢化率は男性26.4%、女性35.4%で平均は33.7%となっている(宮城県HPより)。
今回の震災で亡くなられた方の65%以上が高齢者(65歳以上)(読売新聞HPより)とのことであり、もともと高齢者の多い地域であることは確かであるが、体力の低下、自立度の低下している高齢者が相対的に震災の犠牲になっている。
避難所は25施設、最大5,720人(3月13日)が避難生活した。最後の仮設住宅(国内初の3階建てプレハブメゾネット144戸分)が11月4日に完成(写真-3)し、11月9日にすべての避難所が閉鎖された、とのことである。
写真-3 完成した我が国初の3階建て仮設住宅
資料-3 女川町の津波被災マップ (出典:日本地理学会災害対応本部津波被災マップチーム)
4.女川町の復興
女川町の復興計画を立案されている株式会社復建技術コンサルタント岩淵顧問の説明によると、防災集落への移転を計画したが、町では復興基本計画に先行して危険区域の指定をしてしまったため、集団移転に必要な用地の確保が厳しい状況で、海岸では10mの津波に8mの防潮堤で対応し、集落は谷部を8m盛土する計画で進んでいる(資料-4)。
しかし、この辺りの地質は砂岩と泥岩の互層であり、盛土材には適してはおらず適切な盛土材の確保に苦労している。切土には発破が必要なスレート、凝灰岩、中硬岩を使用することになる。埋立て計画と同時に冠水対策を施してがれきの焼却場を設置する計画も進んでいる、とのことである。
東北の人々と関西から応援で参画されている人々との間には、住民説明において考え方に大きな違いがある。関西では住民説明会の場で激しい議論が展開されると聞いているが、女川町では住民説明の場ではほとんど意見が出ない。歴史・風土により培われたものであろうが、女川町だけではなく東北地方全体に共通しており、行政への信頼度は極めて高い、とのことである。
街の復興には、雇用の機会が喪失してしまった漁業の再開が喫緊な課題となっており、早期に施設・設備の整備が並行して進まなくては真の復興はない状況である。
町の財政は、女川原発の交付金等により潤いがあったようで、1万人の町とは思えない立派な体育館や素晴らしい陸上競技場が標高30mの高台に設置され、その奥の野球場には立派な仮設住宅が設置されている(写真-3)。
このような状況からすると、町の復興には国の支援に加えて、更なる原発の交付金等の支援による原発の確実な安全性の確保と地域住民のコミュニティの再構築が必要と考えられる。行政主体で進んでいる復興計画が住民にとって安心した将来の生活を保証するものとなることを期待したい。
資料-4 女川町の復興土地利用計画と谷部埋立てによる高台への集団移転計画
(出典:女川町復興まちづくり住民説明会(町中心部)説明会資料より)
所感
女川町の現在の姿は、人々の生活という面では極めて不自由であり、町内にはほとんど店舗がなく、生活物資の買い物に大変な労力が費やされている状況とみられる。一部には郵便局や銀行の店舗の営業が始まっているようであるが、本格的な街の復興に向けて全力を挙げて取り組んでおられる関係者に、「我々は何をすべきか、何ができるのか」を強く感じさせられた。
詳細は不明であるが、海岸に広がった谷部を埋め立てて高台に集落移転する構想の実現には、技術的な安全確保のための防潮堤の設置、排水処理、適切な盛土の施工、交通インフラの整備に加えて、何よりも土地の権利者の同意と換地、コミュニティの維持等、多くの難題がある。
今回の震災を教訓とした幾つかの安全確保対策に加えて、「なぜこのように多くの犠牲者を出したのか」を真摯に受け止めた安心への対応が不可欠である。今回のような巨大災害に対しては、ハード対策には限界があることを現実に教訓として認識された。
情報通信ネットワークの構築、高齢者にとって使い勝手の良いサービスの開発、地域医療の整備と町の活性化に繋がるコミュニティの再生を生み出すソフト対策をハードな対策と同時に復興計画の両輪として位置付けて、世界に誇れるまちの再生を期待したい。