震災レポート(東日本大震災)

著者: 吉川 謙造 講演者:  /  カテゴリ: 東北地区  /  更新日時: 2012年05月06日

レポート1  震災直後から10日間
レポート2  ら1ヵ月後
レポート3  震災から2~3ヵ月後

震災レポート (東日本大震災)

公益社団法人  日本技術士会東北本部    吉川謙造本部長
     (2012.03.13
入手。 ※ 環境研究会で要旨にして掲載しました。)

 

レポート1(震災直後から10日間)

 

1.地震の揺れ被害

9.0が起こらないと考えるのは甘かった。原発でこの震度を考慮していないとすれば、誰でも不安に思う。我が家は耐震補強していたし、被害は軽微だった。しかし、「津波による被害」については、余りにも強烈であった。

2.津波の被害

津波は昔から良く知られていた。東北地方の沿岸は世界でもっとも津波対策が進んだ地域といわれてきた。石巻市以北のリアス式海岸部ではほぼ予想通りの津波が発生したが、その南に繋がる弧状の海岸部では10mを超える津波が襲った。内陸2~4km付近まで及んだ。

3.津波について(補遺)

田老町(岩手県)の背後の壁には白ペンキで過去2回の津波水位が記されているが、一方は20mほどもある。しかし、田老町が幾重にもめぐらせた長大な防潮堤の高さは10mを超えない。この程度の堤防では役に立たないと思うが、被害が大きくなる引き潮についてはこの堤防で守られるという説明であった。

チリ沖地震(1960)では津波の被害はほとんどなかった。今回の津波はこの防潮堤を超えたと予想されるので、堤防の効果を確認したい。しかし、国道45号は交通途絶状態にある。

4.ライフラインの通信手段

今回は、わが国の通信手段の脆弱さを痛感した。とりわけ携帯電話は丸2日が経過しても「圏外」の表示、1週間経過しても数回ダイヤルしてようやく繋がる状態であった。これに加えて停電である。4日目に通電したが携帯電話のバッテリーは無くなって、役に立たなかった。

固定電話も同様であった。最初は1,2秒だけ。呼び出し音だけに一日中振り回された。4日目にようやく30秒~1分程度通話できるようになった。丸4日してようやく固定電話は100%回復した。

津波で孤立した地域は、今も何ひとつ通信手段を持たず、連絡も絶たれていることが察せられる。行方不明者が確定死亡者数を上回っているのも、原因の一つがここにあるように思う。

5.その他のライフライン

電気は4日目に回復した。停電の間、ローソクと卓上コンロを経験した。
次は水の復旧である。地震後1週間がたち、我が家の地域は2週間後という見込みと発表された。
ガスは当初仙台市長が1ヶ月で復旧と発表した。その後、海岸部の工場の被害が予想以上だったことから、この見込みは大きく外れた。
道路は海岸部を通る国道が寸断されている。復旧の努力が今後どのように生かされるか心配である。
鉄道は非常に大きな被害を受けた。東北新幹線の被害も甚大で、復旧の見込みは立っていない。

6.行列(渋滞)と合理生活

今回の地震災害では①給油、②給水、③スーパー、④公衆電話渋滞が発生し、市民生活の支障になっている。とくに給油渋滞はひどい。一方、車が減って通勤ラッシュは解消している。
スーパーの行列もすさまじい。ある大手スーパーは開店4時間前から3000人が並んだ。
食事は質素になったが、一汁一菜、何を出しても誰も文句をいわず、残すことも無い。家族の行動もムダが少なくなってきた。ライフラインが復旧した後も、この合理生活のクセを残したい。

7.予測の限界

日本は世界有数の災害大国である。今まで、現状復旧で対応してきたが、有史以前に痕跡がある災害が今の日本で起きないという保証は無い。
今回の地震は従来いわれてきた予測から外れているとはいえない。しかし予測の内容も対策も役に立ったとは言えない。今回発生した津波について、30年は千年を包んでいないが、千年は30年を包んでいる。自然界の長大なサイクルの中には包含されるものもあり、慎重になるべきだろう。

千年確率の防災対策は、今までの日本では考えてこなかったが、これからの防災対策の重要な視点になる。地質学上は、これよりはるかに長いスパンでの変化もあるが、実質的には日本列島が存在している数10万年のことを考えればよいだろう。

8.ボランティア

ボランティア活動は、今後大きく変貌するだろう。今は多くのボランティアを送り込まれるより、現場の負担が軽い義援金のような援助の方がありがたい。

今、被災地で必要なのは、瓦礫とヘドロの中で救助・捜査活動が出来る重機を備えた自衛隊やレスキュー隊のような集団と、水道、電気、ガス等の復旧工事を担当するプロ集団である。素人では何も出来ない。
今の被災地はガソリンも無く、現地に入ることも難しい。TVでは避難所で救援物資を配るボランテイィアの姿が放映されるが、軽微な仕事はそう多くは必要ない。

必要なのは、在庫管理や輸送計画のプロであり、単純作業は元気な被災者に任せるべきである(共助の精神)。これからの被災者救援活動でも「自助・共助・公助」の考えが正しく生かされ、成熟したボランティア活動を望みたい。

9.いくつかのドラマと今後の問題

地震後10日を経過して、死者・行方不明の合計が21,000名を超え、捜索が続いている。今回の被害について直接見聞きしたドラマを書き残しておきたい。

岩沼市の海岸沿いに住む両親を訪ねようとしたところ、消防団の人から「津波が来る」と止められ、自分たちは難を逃れたが、両親は音信不通である。

津波発生の1時間前、青森から自動車で移送し終えたが、直後に車が保管場所から流された。移送者も受け取り者もその場を離れており、直撃は免れた。うち一人は仙台に向かう電車が止まり、胸まで海水につかり移動し、付近の避難所で夜をあかした。
自動車を受け取った人は、津波後現地に戻ったら、全て津波に流され、更地になっていた。車よりも顧客データの入ったパソコンがなくなったことが大きな痛手という。

使い物にならない自動車などのがれきの処分が問題になり始めている。他人の財産かゴミかの判断が難しく、多くの問題が発生しそう。

10.原子力雑感(東電  福島第一原発事故から)

① 原子力政策の出発点と方向

将来のエネルギー需要を見越して、時の総理と財界トップが話し合って政策の方向が決まったようだ。問題点は走りながら解決しようという判断だったようだ。大変重要なことは、国民に対して「絶対に安全で押し通す」ということだった。

科学技術者の目から見れば、人間が作り出した技術で「絶対安全」などありえないことは、判りきったことだが、結局は無知な国民の感情論で反対意見が通ることを危惧して政府はこの政策を決断したという。いくつかの事例がこのことと一致する。

a)原子力の安全性についての討論で、危険性と対策について、推進派・体制側は「そういうことが絶対に起きないよう、原発は4重、5重の対策を取っているから絶対安全だ。議論すること事態無意味だ。原子力なしで日本の電力供給をどうするのか」というすれ違いに終始していた。

b)廃棄物問題について、原発PR館の女性説明員は、高レベル廃棄物は、今建設中の青森県の六ヶ所村にあるリサイクル施設で30年間保管するので地元は大丈夫というが、問題の先送りでしかない。

日本の原子力政策は出発点から「ありえない安全神話」に縛られ、矛盾を抱えて苦しみ続けている。

② 東電の対応

日本の電力会社はどこでも「超」のつく官僚機構になっているようだ。今回の事故の初期に、東電幹部が「降りたい」と本音をもらし、総理の激昂を買ったという報道があった。電力会社は日本の政策に乗っている国策企業として最終責任を取る覚悟が必要である。

昭和30~40年代、石炭産業は炭鉱爆発があると必ず「人災」として、鉱山長が責任を取った。国内の石炭産業を守る為に自然条件が悪いということをいわずに、日本の科学技術で克服できるはずとしたのである。東電も原子力産業を守る立場であれば、これを否定することはできない。石炭産業は石油という代替エネルギーが台頭したので、上手く撤退できた。原子力は代替産業があるとはいえないのではないか。

③ 新潟県柏崎刈羽の原発事故との相違点

2007年に発生した新潟県中越地震(震度6強)の際の原発事故報告書がある。原発事故では「止める、冷やす、閉じ込める」という基本への対応方針は適切だった。しかし、今回の事故では想定外(?)の津波のため、「冷やす」ための送水ポンプが機能せず、最も初期の対応すらできていなかった。

原発ではなぜ「冷やす」ことが重要かを明らかにしているとはいえない。今まで見過ごされてきた重層的な下請け構造と、積極的な情報公開を怠ってきた原子力行政の反省から、原子力政策の大きな転換点になりそうだ。

レポート  震災直後から10日間
レポート2  震災から1ヵ月後
レポート3  震災から2~3ヵ月後

レポート2(震災から1ヵ月後)

1.真の支援

全国の各地から支援について声がかかる。しかし私の家と家族の被害はごくわずか、不自由だったのは電気と電話が通じない4日間位だった。しかし、津波と原発による被災者は今も大変な状態である。それらの人たちが、相互扶助関係を作り出している。

気仙沼市の要請で、過去に発生した津波(痕跡)の地質調査・研究を続け、現地に入った大阪の公立大学の友人の話をする。海底地形調査目的の機械が湾内の船舶や死体探しに有効で、連日その調査に奔走した。いつの間にか自衛隊員がその先生の指揮をすることになった非常時に危機管理が出来る指揮官(リーダー)が決定的に足りないので、市の広報役まで勤めることになった。

地方の自治体で足りないのは危機管理が出来る人である。県から国に要望をあげているが、窓口も不明で「なしの礫(つぶて)」であり、そこにいる人間で何とか対応しているということであった。

2.避難所生活者のホンネ

未だに所在がつかめない人もいるし、1000以上の避難所に10数万人が避難している。自宅を失い、頼るべき身内の無い人のほか、ライフラインが断絶して避難所で生活を余儀なくされるなど、千差万別である。避難所生活の不便さは経験した人でないと分からない。
行政は職員数の不足もあり、小規模な避難所をまとめたいが、思うようにならないという。避難民に対して画一的な対応でなく、本人たちが望む形の支援が望まれる。

3.宅地被害

1978年の宮城沖地震では都心部の被害はほとんど無かった。その後造成されたM住宅団地(丘陵地)の盛土の被害が大きかった。当時は危険な宅地に移転勧告が行なわれた。しかし、所有者の自己判断に委ねられたところで被害がでた。

現在の法律では、個人財産(土地)のすべてを公的資金(税金)では守れない。部分的な地盤の安定化にとどまった。余裕の無い人は「自分が生きているうちに、もう2度と大地震はこらない」と判断した。しかし、今回もこの宅地が被災した。
ただし、当時造成されていた宅地で、被害が無かったところも多い。造成地の盛土でも、十分な管理の下に慎重な造成を行なえば大丈夫。切土部分は安全である。今回の地震は前回より大きく、S団地では今回被害が発生した。

今回被災した宅地は、「危険宅地」の札がはられ、住民は判定委員会の判断の下に決断することになるが、将来の不安は一生消えないだろう。

4.地震の前兆現象と液状化の怪

大地震の前に「地震雲を見た」、「発光現象を見た」とか、「動物が異常な行動を取った」など、後で気がつく前兆現象が報告されている。その科学的根拠も示されたが、今はこのフィーバーは下火になっている。今回の大地震も、この観測網で予測できたという報告は無いようである。

今回の地震にともなって、埋立地にある東京ディズニーランドでは顕著な液状化現象(地盤の流動化と噴砂)が発生したと伝えられている。しかし、一度液状化が発生したところは、地盤が締まって同じ程度の揺れでは、液状化が起きにくくなっていると思われる。

特に今回の地震では海底が20数mもずれており、女川半島の先端が数mも移動し、内陸部では広範囲に1m近い地盤沈下が生じたのであるから、地震の前日にその変状やヒズミが活断層に沿って伝達されて、液状化が発生したことは否定できない。しかし、数々の不思議な現象は観測されつつも、地震予知が出来たかは疑問であり、進化していないのである。

5.略奪行為

日本人の倫理的な行動が世界の賞賛を浴びている。特に東北人は寡黙だが、粘り強く、礼儀正しいといわれている。しかし、津波に流されて放置した自家用車からは貴重なガソリンが抜き取られ、タイヤも盗まれ、避難家屋への空巣も多く発生した。また地震直後の停電の中、ある大手のショッピングモールでは、かなり多くの客が商品をだまって持ち帰ったことが目撃・報告されている。

みんなギリギリの生活をしているのだから、売物にならない商品を少々持ち出しても、それを役立ててもらえるなら良いのではないかと、暗黙の了解があるそうだ。極限の状態で互いにいたわり合って生活している人たちの心は、すさんでいるかも知れないが、弱者に対する優しい心は失われていない。
真の略奪とは、誰かが悪いことをするのを見て、そんなら自分もという心を抑えきれず、統制が利かなくなる状態を言うのであり、略奪、暴動には発展しない。汚いこと、卑怯なことを嫌い、公正な自制心を持つ日本民族は世界の宝である。

6.地元産業と雇用

今回の災害の爪あとは大きいが、命が助かった人は一日も早い復興を願っている。働く場所を失った人は大きな不安が消えない。それは仕事、すなわち永続的に収入を得る途(みち)の途絶である。たとえ家が無事で、災害見舞金や義援金をもらい当面の生活には一息ついても、30~50万円程度のお金は2,3ケ月で無くなってしまう。これでは将来の生活に大きな希望は持てないのは当然である。

時間給は1,000円、ほんの数日間の仕事でも、本当に喜んで働いてくれるという。自分の家も家族も悲惨な状況にあるのに、何よりも自分に「世の中の役に立つ仕事」があることが嬉しかったらしい。金額の多少ではない。仕事をさせてもらえるのが本当に嬉しいのだ。地元で従来通りの仕事に就けるか、これからの生活が最大の問題点である。これは原発事故で避難している人も同様であろう。

被災者の中から労働希望者を募集することなども良い方法である。大きな復興需要が発生したら、地元、被災者の中から元気な人を積極的に雇用すれば、10年近い需要が発生するだろう。それが地元の活性化の端緒となり、その中から産業が復活し、新しい産業の創造も期待できる。
復興の元気は、確実に社会の役に立っていると実感できる仕事に従事している人から生まれる。

7.地方自治と国の安全保障

統一地方選が終った。その結果、色々な勝ち負けの判断はあろうが、北海道の髙橋はるみ知事、東京の石原慎太郎知事など、実績のある人が選ばれた。

今回の選挙では原発立地県以外は際立った争点は見られず、どの候補者も申し合せたように自分の自治体の防災力upを訴えていたが、国のエネルギー・食料など安全保障問題とあわせた政策を主張した人はいなかった。
地方自治と国の安全保障は別問題かもしれないが、そこには整合性がなければならない。しかし今回の事故では、リスクを引受けた形になった地元の怒りは簡単には収まらない。絶対安全の言質の下で、電源交付金というアメをもらい続けてきた地元知事の「だまされた」という言葉も当然である。

日本には過疎地域が確かに存在する。しかしそこは何もない不毛な地域ではない。
狭い国土の中で、一つの地域が繁栄するためには、それに必要なものを提供し続けている地域もある。リスクと環境の活用を適正に考えなければ、持続可能な社会にはならない。

8.津波の歴史と防災へのヒント 

陸奥の国  三代実録には、陸奥(宮城県)を襲った貞観地震の記録がある。「大きな揺れと発光現象があり、人々は地に伏して叫び、城や倉庫の崩壊多数、城下を襲った津波で原野と道路が海のようになり、溺死者は約千人に達した・・・」と被害の大きさを伝えている。

昔の人は石碑や神社を遺し「かつての津波はここまできた」「ここから海側には住むな」と伝えている。
1100年前の貞観津波がここまできたと伝えられ、東北大学で波分神社付近の地質調査を行い、その結果十和田火山灰(915年噴火)の下に、貞観津波による砂層が確認され、これより津波の到達は現在の海岸線から約3キロ(当時の海岸線から25キロ)と推定されている。

今回の地震と津波は、千年に一度といわれている。しかし仙台市の平野部に限定して見れば、というべきである。津波の正しい評価はこれからになるが、津波はもっと頻繁に発生している。

例えば明治291896)年、明治三陸地震(M8.2、震度2~3)、昭和81933)年、昭和三陸地震(M8.1、震度5)などがそれである。これら古い地震は正確な記録がないため、津波の発生機構がよく判っていないが、もしもう少し南で、そして浅い位置でエネルギーが放出されていたら、同程度の津波になっていたかもしれないと考えるべきである。
これらの地震(津波)も含めれば、今回程度の津波は60120年間隔で発生してもおかしくない。

そして、津波には2つのタイプがあるようである。一つは大きなエネルギーを有し、壁のような波となって襲い掛かってくるもので、万里の長城と呼ばれた岩手県田老町の延長2.5km、高さ10mの防潮堤も軽々と越えてしまい、ほとんど役目をなさなかった。津波の大きなエネルギーは、波高だけでなく、鉄筋コンクリート製の電柱を曲げ、ほとんどの建物を破壊してしまう力をもっていた。引き波の力も大きく、気仙沼湾では海底が10mも侵食されたという報告もある。

もう一つは「ゆっくり」と寄せてくる比較的おだやかなタイプがそれである。当然ながら後者の被害は格段に小さく、松島湾でその典型が見られた。しかし、湾内の漁船を転覆させ、養殖施設の一部を破壊していることから、相当のエネルギーを有していたことは間違いない。

このような津波に襲われたが、松島湾内の最奥部は、その周辺に比べても格段に被害が小さく、最終的には僅か3m程度の防波堤で津波を防いでいる。沖合の島の存在、海底の地形等で津波のエネルギーを減殺できるという可能性から、新しい防災のヒントが生まれるかもしれない。

9.余震

今回の地震はズバ抜けて余震が多い。しかもその揺れが強い。従来の学説によれば、地盤が耐えられるエネルギーの大きさから、M8.6が理論的限度で、その震源の範囲は100km×100km程度であるといわれていた。しかし今回の地震はM9.0という、わが国では初めての大きさで、何もかもが想定外であったといわれている。従って、余震の多さ、強さも想定外である。

東日本大地震後の主な余震

 

   <2011.3.113.31 に発生した余震のまとめ>

震度1 以上の有感地震:803
震度4 以上の地震:103
震度5弱以上の地震:19

67級の地震がこんなに頻発するという事は、日本の地下の地盤の性質が変わってしまったのか、それとも本来地盤はこの程度のヒズミを蓄えられるもか、最新の考えを早く知りたいものだ。

10. 火事場のバカ力(ちから)

今回の災害(特に津波)では、人間の力の限界を超える事象が、数多く報告されている。

80才を越えて、自宅の散歩程度しかできなかった老女が、消防団の「間に合わないからここに登れ!」の指示で、鉄筋コンクリ-ト製の電柱に軽々とよじ登り、助かった。

普段は介護者に助けられて、やっと歩いていた老人が、「津波だ、逃げろ!」という声で、誰よりも早く、安全な場所まで走って逃げた。

自宅の2階や屋根の上で、首まで海水に浸かりながら朝まで頑張り、水が引き始めてから救出された、という人はかなり多い。

火事場のバカ力(ちから)という言葉がある。非常時には人間の肉体的能力が平時の数倍になるということだが、これの医学的、生理学的な説明は完全に出来ているとは言えない。

人間は明確な目標、例えば「明日の夜明けまで」といったような、具体的な期限があれば、そこまでは生命力を発揮し続けられる。南米チリの33人生埋め事故も、外部との連絡がつき、絶対助けに来てくれる、という確信と希望があったればこそ、全員が生き抜けたのだと思う。

11. 「頑張ろう日本」の最大のハードル

「日本は一つ、頑張ろうニッポン」今、どのメディアを見てもこの合言葉である。本当に大丈夫だろうか?という思いが先に立つ。頑張るための絶対の条件、それはみんなが一つ心になるということで、そのためにはスタートと方向(着地点)を明確に示し、国民の心を完全に一つにしないといけない。

その点で今回は難しい原発事故を抱えている。東電は自分のことで精一杯だろうが、政府はしっかりした認識を持たないと、不平・不満の声が大きくなって、国民の心を一つに出来ない恐れがある。
地震・津波という自然災害に対しては、国民は冷静に事態を受け止めて、お金の問題はともかく、早く復興・復旧に向かうことを全員が望んでいる。その点で戦争からの復興も、阪神淡路大震災も、スタート時点と方向は明確で、民心は完全に一つになることが出来たといえる。

しかし原発問題はきっかけが自然災害であったとはいえ、人災の要素が大きい。数ヶ月~何年もの間、生殺し状態に置かれる住民があることが事態を複雑にしている。技術的な問題は難しいかもしれないが、これを東電と原子力安全委員会任せにせず、少なくとも民心の安定には、政治の強いリーダーシップ、国民の心を一つにできる指導者だと思う。

レポート1  震災直後から10日間
レポート2  震災から1ヵ月後
レポート3  震災から2~3ヵ月後

レポート3 (震災から2~3ヵ月後)

 

1.自助・共助・公助

災害への対処には「自助・共助・公助」の3段階がある。

自助: 地震の大きな揺れがきたら、ガスの元栓を閉め、机の下に入る。先生の指示に従って整然と避難する・・・・・これは当然として、普段は、やっと歩いている人が、誰よりも早く走って安全なところまで逃げたなど。個々人が発揮した火事場のバカ力(ちから)などもこれに当たる。

共助: 男性は女性を、大人は子供を、若者はお年寄りを・・・、皆が助け合う姿。略奪、買占めはなく、整然とした買い物の行列への割込みもない。これらの行動は、穏やかな国民性、品格と威厳に満ちた姿だと世界中から絶賛された。津波で生命を失った人には消防、警察、自治体の職員の比率が高かった。など、これらの行動も、美しくも崇高な行動として、世界の賞賛を浴びた。

公助: ガス、水道、電気などのライフラインの復旧、道路の確保とガレキの撤去、行方不明者の捜索、医療など、国内だけでなく世界中からの支援もあり、公助の前半部分は十分に機能した。また、復興を裏方で支えている多くの人たちが居るのも忘れてはならない。

ここまでは世界中から高い評価をうけた日本である。しかし公助の真価、分すなわち政治・行政の力が問われるのはこれからである。特に原発事故という超難問の解決も含めて、国民に勇気と希望を与えられる目標を示し見事に国難を乗り切らなければ、真の力を世界に示したとはいえない。

2.避難所生活からの脱出

50日ぶりに出社してきた社員から聞いた、ひと月余りの避難所生活の一部を紹介する。

その方は、宮城県の沿岸部にあるS町の「津波防災センター」という施設に避難していた。ここは、全280戸のうち、35戸が津波で被災し、津波がきた当日の夜は100人以上がここに避難した。5月の連休明けに閉鎖して、より大きな避難所に集約される予定という。

被災から1週間は、電気、水道のない生活で、公的な支援物資は何も届かなかった。しかし、250戸の被災していない家々からの、食料等の物資が寄せられ、その間、なに不自由なく暮らせたという。

ひと月以上も共同生活を続ける中で、いつの間にかお世話をする立場になってしまった。新しいコミュニティーでは自然発生的に新しい人間関係が生じ、頼りにされる必要な人間になる。

家も職場も失った人は一日中何もすることが無い。だから職場が無事で、出勤可能な人は周囲に気を使わう。他にも同様な人がいて、その人も作業服姿で通し、背広姿で出勤はしなかったという。みんなが同程度に「不幸」であることが、被災所生活者の条件なのである。

3.視察(頑張れない・・・)

あるTVのレポーターが、一人の老人に、「がんばれますか?」と問いかけた。その答えは「頑張れない、頑張れません・・・・」という言葉だった。「私は津波で家も家族も全部亡くした。仕事も無い。一体、何をどう頑張ればいいのか?」と逆に問われて、聞いたほうが言葉につまったという。

両陛下のお見舞いならともかく、総理や担当大臣の視察が、「頑張ってください」との声かけだけに終わってはならない。この立場の人たちは、具体的に、何を、どう頑張ればよいのかを被災者にきちんと伝えて、ヤル気を出させるのが真の役割である。

自分の窮状を真剣に聞いてくれているか、単なる儀礼で手を握って「頑張ってください」と、笑顔を振りまいているだけなのか、相手は敏感に感じ取ってしまう。これからは日本政府の行動が世界から評価される番である。

4.予知(再)

地震や津波を予知できたら、とは誰もが考える。国の防災方針も、当然のことながら予知を視野にいれている。しかしかなりの研究がされてきたが「予知可能」という結論には達しなかった。
今ではむしろ、予知は難しいからその研究にはあまり金をかけず、地震が発生してからの迅速な対応で被害を最小限にとどめ、復興を早く行うという現実的な方向に進んでいる。

津波の予兆でもっとも良く知られているのは、寺田寅彦や吉村昭の著書にある「豊漁」であろう。大津波の前年から直前あたりまで、沿岸部は例年にない鰯や他の魚の豊漁が続いたと報告されている。
しかし、これらはすべて「後から気が付く予兆現象」といわれるもので、そのことから「どこで、いつ、どの程度の地震」が発生するかを予測する事は、まったく不可能な事象ばかりである。
動物の異常行動も同様である。地震予知を科学的に行うには、刻々と地中に蓄積するヒズミの大きさと、場所(範囲)を直接的に計測するなどの方法によらなければならないだろう。

また地震発生後に海底が30~5050mも水平に移動したと報告されているが、これが反発による変動だとすれば、継続的に海底地形の測量を行っていれば、どこにどの程度のヒズミの蓄積があるか、推定は可能である。300年以上にわたってヒズミをため込んでいた部分があるということなら、今までのM8.6最大説と地震発生の周期説をもう一度見直す必要があるだろう。

5.避難所(その2)

今回の震災では自衛隊の規律・行動の素晴らしさや、被災住民の落ち着いた行動が賞賛された反面、一部の識者から避難所に対する自治体の対応などで、多くの問題点が指摘されている。

しかし、自治体そのものが被災して、だれも判断・指示が出来る人がいなかった。数日間も情報が入らない中、どこにどれだけの被災者がいて、どこが安全な場所なのか誰も分からなかった。住民は自分たちで判断して安全なところに集結した。避難所が数千箇所に分かれたことは当然である。

命の次は財産である。報道の表に出たものは、規律正しく礼儀正しく、そして我慢強い被災者の行動、行列に割り込まず、危険な原発事故の回復に献身的に取り組む作業員の姿であり、多くの善意のボランティア等々・・・。これは世界中の絶賛をあびて、日本人の倫理的な面ばかりが強調された。

しかし、こんな時にも他人の不幸につけ込む、「火事場泥棒」のような行為があった。
津波の翌日には、関西ナンバーの軽トラックで一目でそれとわかる、2人組みの若者が、ガレキの中を歩き回っていた。結局、不審には思いながらもどうすることもできない。その後、自動車のガソリン抜き取り、新車のタイヤ持ち去りがあっという間に拡大した。多くのグループが暗躍したことが想定される。このような窃盗行為に対して自衛策が必要になる。

津波のエネルギーは想像を絶するもので、家屋からは金目のものを落ち出すことはほとんど不可能だが、原発から20~30km圏の避難地域は、このような窃盗団の格好の目標になる可能性がある。他人の不幸に付け込んで、他人の財産をかすめ取るドロボウ(窃盗行為)である。有効な対抗手段が無いときは、自主防衛しかない。

6.御用学者

いつの間にか世間では常識語になっている。原子力問題で政府の参与だった某東大名誉教授が、涙の会見をしてこの役を降りたことでもわかる。これは学者の先生達が悪(わる)なのであろうか? そうではない。本当は物分りの良い、柔軟な思想の人たちなのであろう。

わが国は矛盾に満ちた国で、現実と政治が大きくかけ離れている。たとえば災害とエネルギー問題である。過去にわが国で発生した災害は、地震の揺れでは2008年の岩手・宮城内陸地震で4,000ガルという大きな加速度が記録されており、今回の東日本大震災では波高15~20m以上の津波、地震のマグニチュードも理論的最大値といわれる8.6を上回る9.0であった。しかし、すべての場所でこの最大規模の災害に備える事は不可能である。

通常の土木や建築の耐震基準は、大地震の度に修正が加えられ、次第に厳しいものになっているが、基準が改訂される前に作られた建物は、古い基準を満たしていれば、法律上は問題ないとされる。
これは基準が変わるたびに昔の建物を全部作り直すことは不可能であることから、当然である。

しかし、原発はそれで良いはずがない。本当はおきるかも知れないことを、それは心配しなくて良いと言わなければ日本はやっていけない。そこで権威といわれる人たちを集めた「基準」つくりが行われる。それは大学の先生や評論家などいわゆる知識人である。東大、京大等の旧帝大などのブランドが良いに決まっている。これらの人たちは国の片棒を担がされる危険に、満ちているのである。

もし基準を安全側にすると、今の技術では何も作れなくなってしまう危険性がある。政治的判断は予算に規制され、現実路線をとらざるを得ない。これに理解を示し、柔軟な考えをもつ学者が、いわゆる御用学者になる可能性を持っている。

政府の方針に従えば研究費と言う金を自由に使え、一方反体派の人たちは、「干される」という待遇を受ける。もし、自分の在任中に今回のように問題が起きた場合には、逃げてはいけない。いさぎよく、「基準」を決めたときの社会的背景など、正直にその事情を公表すべきである。

7.再び公助

災害は進化していると言われる。大きな災害のたびに種々の法律が作られ、基準もそれにつれて変わるのが通例である。新潟地震で液状化、1978年宮城県沖地震でブロック塀の構造(耐震化)と宅地造成法の改善、1995年阪神淡路大震災では大都市の地籍協会、2004年中越地震では農地の地すべり、2008年岩手・宮城内陸地震では、・・・・である。今回の災害では、前例のない原発事故までがある。

今は提言・提案が花盛りである。例えば集団移転である。仙台市のアンケートによれば、津波被災者の40%が移転を希望し、残りの60%近くが今のところに住みたいと希望しているという。地盤沈下で海底に沈んでしまった土地をどうするか?

日本は土地に対する私権を最大限に認めてきた国である。自分の土地に住むなというのには、今までの思想によらない新しい法律の発想が必要である。
大自然の摂理に従うなら、文明の進歩はますます加速化する。今回の災害を天災と人災による惨禍とする人は、エネルギー(原子力と化石燃料と自然エネルギーのバランス)と、災害をセットで考えなければならない。今の防災は、土木等の構造物はある程度の強さで作っておき、これが災害等で壊れたら、また直すという方法をとってきた。しかし、原発はこれではダメなことがはっきりした。

自然エネルギーも簡単ではない。安全性、環境問題と局所集中を避ける必要があり、それらを考慮しない提案は意味がない。1ヶ所に集中させると、地震があれば全部壊れる危険があり、風力発電の適地として海上では、地震だけでなく津波にも耐えられる構造にしなければならない。

停電のときは、家族全員がひとつの部屋に集まって、普段より会話が増えた。世界中から支援、義援金寄せられている。大きな数字(金額)が注目されているが、貧しい国々の人たちがみんなで集めてくれた、数十万、数百万円の貴重さ、ありがたさを忘れてはならない。

 

レポート  震災直から10日間
レポート2  震災から1ヵ月後
レポート3  震災から2~3ヵ月後

 


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