エジプトナイル川の水資源開発・利用の歴史と現状

著者: 西島 信一、鈴木 秀男  /  講演者: 佐藤 政良 /  講演日: 2019年9月28日 /  カテゴリ: 環境研究会 > 講演会  /  更新日時: 2019年11月26日

 

環境研究会 第91回特別講演会

日 時:2019928日  14:0016:00

場 所:大阪大学中之島センター 303講義室  参加者:34

演題:エジプトナイル川の水資源開発・利用の歴史と現状

講師;佐藤政良氏 筑波大学名誉教授 元ICID(国際かんがい排水委員会)日本国内委員会委員 (一社)農業土木事業化協会 代表理事

はじめに(なぜナイル川を研究対象としたのか?)

永らく日本の農業用水の計画とその管理を主な関心事として研究に取り組んできた。それは日本の食糧問題を考えていたからだが、日本という枠を取り払って世界のかんがいとして考えてみることが必要と考え、その研究対象としてナイル川を選んだ。なぜ エジプト・ナイル川だったのかというと、1990年当時、アスワンハイダムの建設によるかんがい開発について、日本でのほとんどすべての論調は、5千年間も続いてきたエジプトかんがい農業がアスワンハイダムによって壊滅してしまうのではないかというものだったからである。

海外の問題をやるには、一度自分の目で見て考えないといけないと思い、エジプトナイル川の水利用について自費で調査に行った。「これは大変だ。日本の技術が貢献できる事が山ほどある」という印象をもって帰ってきた。2008年度、日本科学技術振興機構・JICAによる地球規模課題にとり組むという研究プロジェクトが始まり、幸い、初年に研究費を獲得出来た。5年間の研究期間(実質的にはアラブの春の影響で6年間)を終えて、チームとして研究してきた内容を纏めてドイツの出版社から出版した。

Masayoshi Satoh, Samir Aboulroos (ed.) Irrigated Agriculture in Egypt

 Past,Present and Future, Springer   290ページ(2017

1.ナイル川とその水資源

ナイル川は河川長6,700km、流域面積は300万km2(利根川の約180倍)で流域は最下流のエジプトを含めて11ヵ国にわたる。赤道直下のビクトリア湖付近からハルツームに流れる区間を白ナイル、エチオピア高地からハルツームに流れる支流を青ナイル(土砂を多く含でおり、濁っている)と呼ぶ。ナイル川のアスワン地点での長期平均流量は年間840億m3とされ、そのうち青ナイル川から540億m3流入する。1年に1回ナイル川に起こる洪水は青ナイルによるものである。この洪水は8月から10月に起こる。この洪水によってエジプトの農業は5千年間続いてきた。ナセル湖(アスワンハイダムによって造られた湖)地点での実績流入量は19652008年の年間平均で632億m3であった。洪水の大きさは年によって変動している。きわめて貯水量が大きく経年貯留のアスワンハイダムでは1年に1回起きる洪水と渇水で貯水量が低下と回復を繰り返す。

   図-1 ナイル川の主要流路

.エジプトを5千年間支えてきたベイスン灌漑

ナイル川で1年に1回8月から10月に起きる洪水を堤防で囲った耕地(ベイスン=水盤)に水路で導いて貯水・湛水し、洪水が引いた後にベイスンのブロックの下流で排水路に排水したのち11月に小麦を蒔き4月に収穫した。収量は125 kg/10 a程度であった。日本の二毛作と同様、湛水で連作障害の回避が行われている。しかも無肥料で、五千年間持続的に続けられた。         

なお昔のベイスンはナイルデルタに入るカイロ上流のナイル河谷が中心であった。

3.ナイル川への働きかけ -ムハンマド・アリの挑戦-

 1805年、ナポレオンをエジプトから撤退させたムハンマド・アリがオスマントルコのエジプト総督についた。ムハンマドは綿花栽培(夏期)を導入し発展させるために初めてナイル川に取水堰建設を開始し通年灌漑を導入しようとした。1862年にナイル川が二派川ロゼッタ川とダミエッタ川の流頭にデルタバラ-ジュ(堰)が完工、用水路の整備も行われた。これによりベイスン灌漑から通年灌漑が実現した。その後順次堰が造られ全体で7カ所となった。また1905年にはアスワンダムが完成した。このように人間が自然に対して働きかける行為の結果により安定した通年栽培が確立した。

4.アスワンハイダムの建設とそのインパクト

人間のナイル川への働きかけの最終的な姿がアスワンハイダム(以下AHDと呼ぶ)である。ムハンマド・アリの王朝が34代続いた後1952年エジプト革命がおき共和国となった。その後すぐの1958年にAHD工事着手1964AHD締め切り1971年完工した。AHD建設をめぐっては激しい賛否の議論があった

-2 ナイル川の主要水利施設(エジプト国内)

AHDの諸元 総貯水容量1623億m3・有効貯水容量1300億m3(流入量の1.5年分)・堤高111m・クレスト高海抜196m・クレスト長3.83km・堤体幅(上部、下部)40m、980m・最大発生電力210kW ・年間発生電力量100khである。1959年にジプト・スーダンの2国間で水資源配分協定が結ばれた(エジプト555億m3 スーダン185億m3 100億m3はナセル湖からの蒸発損失)。

AHDの効果

AHDの建設によってダム下流の流量が安定化し、・AHDの流量調節によりかんがい用水の安定供給が可能となり、総農地面積が1961年から2014年には256.8haから373.3ha45%増加した。連年同じ作物を作るPermanent crops(果樹園等)6.9haから94.7haに、麦・綿花などの耕地であるArable land 249.9haから278.6haにそれぞれ増加した(果樹園等の増大が目立っている)。農地の増大は、主として砂漠地を農地化した事による。

AHD締め切り後の1988年水危機

ナセル湖への流入量は1982年から1987年まで続いて年平均を下回った。AHDの様にきわめて貯水量の大きい経年貯留の大ダムでは、単年で流入量の減少があっても問題がなかった。しかし7年間も洪水流入量が減少する年が続いたので順次貯水位が下がり19887月に低水位147.0mに近い約152mまで低下し危機的水不足となった。あれだけ世界中を巻き込み、大きな議論をして作ったAHDが、20年もしないうちに、洪水流入量の自然の揺らぎの中で、開発した水資源にもう余裕がないことが明らかになってしまった。その後は節水等水利用の仕方を変えて来て、現在は水位も回復し比較的高い水位を保っている。

5.デルタ内部での灌漑用水の使い方

エジプトで使われる水の86%がかんがい用水のため、農業用水をどうコントロールするかが重要となっており灌漑用水の使い方について主要な点を整理しておく。

ナイルデルタ全体で、用水路、排水路は完全に分離して設置され、幹線用排水路はデルタの頭から、それぞれ約170kmを流下し地中海に到達する。伝統的灌漑では、メスカと呼ばれる分水路からマルワと呼ばれる末端小用水路に各農家が揚水し各圃場に導いている。メスカの水位は農地より低い。日本では、一般に用水路の水位は耕地より高く自然流下が可能だが、エジプトでは雨が降らないため、高い水位にするとそこから染み出し蒸発することで水路周辺に塩を集積するので、塩類化防止のため耕地より低く水位を保っている。

6.乾燥地は塩との戦い

塩類集積の点から、持続的農業のためには、次が重要になる。
 1.耕地に貯まった塩を排除する
 2.塩が貯まりにくいよう、土壌からの蒸発損失を抑える
 3.地下水を低く保ち、耕地を通した蒸発を防ぐ
砂漠地を開発していった事でデルタ地域への灌漑用水の供給量が削減された。デルタ地域では用水路と排水路が分離されているので、下流の、用水供給が少なくなった地域では排水路の水を反復利用せざるを得ず、土壌の塩類濃度が上昇する事となった。このように塩類集積問題は下流部に集中する。エジプト・ダカラオスでは塩害で農地が放棄された例も生じている。地下水上昇による塩類集積の防止のために、暗渠排水がエジプトのほぼ全耕地に敷設されている。

7.限りある水資源と環境

エジプトの人口増加は著しく、1961年~2012年の間に約3千万人から8千万人(2,018年で1億人)に増加している。現在エジプト政府が抱える水資源課題の主なものは次のようである。

(1)ナイル川の水を増やす最後の手段

ジョングレイ水路プロジェクト。これは南スーダンのサッドと呼ばれる大湿原地帯に白ナイルの水が流れ込んで大量の水を蒸発散で失う。これを回避するため下流のナイル川出口へ大規模な水路を直結させようとするものだが、治安の悪化でストップしている。この地で洪水の変化に応じて高地と低地を移動する伝統的生活をしている人たちはどうなるのかという問題がある。

(2)Sisi大統領の40haの砂漠地開発計画

5年間の研究プロジェクトが終わったころに水資源開発省の大臣に呼ばれ研究成果についての説明を求められた。その際大臣から「エジプト政府の計画は地下水を利用する。水量に限界があるかもしれないが、30年持てばよい。30年もすれば科学技術が進歩して、地中海から真水が来るようになる。」と言われ驚いた。この計画は当面の大規模開発がメインでエジプトが築いて来た持続的農業をどう守っていくのか、という視点が抜けていると思う。

(3)他の水源流域諸国の要求拡大への対応

その一つに、エチオピアが青ナイルに建設を進めるグランド・ルネサンスダムがある。このダムはエジプトナイルの主水源である青ナイルの本流、スーダンとの国境付近に位置する。総貯水量740億m3、発電能力600kW。エジプトは反発しているが止めることはできない状況。上流水源国の当然の権利が主張されるようになったとみられる。ただしエチオピアは、これは発電専用であり、エジプトへの水量を減らすものでないと主張している。今後、エジプトはナイルの利用において困難を増す。以上のような大きな課題がある。

基本的問題として、まず人口の伸びを抑える事が必要と考える。人口増加の圧力の中で深刻な事態が起きるのではないかと心配である。エジプトの人のなかには「次の戦争は水をめぐっておきるのではないか?」と思っている人がいる。またアラル海のいくつかの湖もすでに消えてしまっており、エジプトの置かれている状況は厳しい。

 

先生は講演の最後に「技術者として、目の前に起きていることをできるだけ合理的に解決するためにどれだけの事が出来るのかが重要」と締め括られた。

(文責:西島 信一/鈴木 秀男 監修:佐藤 政良)