「右と左」の違いについて-日常生活から分子の世界まで-

著者: 藤橋 雅尚 講演者: 田井 晰  /  講演日: 2010年04月15日 /  カテゴリ: 講演会  /  更新日時: 2011年02月20日

 

化学部会(2010月度)研修会報告

  時 : 2010415日(木)
テーマ : 講演会

  

講演 「右と左」日常生活から分子の世界まで

田井 晰 兵庫県立大学 名誉教授 理学博士
元 姫路工業大学(現 兵庫県立大学)理学部長、近畿化学協会メンバー
専門分野 立体区別(不斉)反応、天然物化学(昆虫フェロモン)

 

はじめに

本日は技術士化学部会の集いであるので、皆様に気楽になるほどと聞いていただける“右と左”の問題を、日常生活に係わる雑学から分子の領域に言及してお話しする。

日常生活の中の右と左

先ず小学校で習う漢字の右と左について筆順の違いとその起源を紹介する。図1に示すように筆順は、右は“ノ”から、左は“一”から書き始める。この違いは象形文字(篆書)から楷書に変わるとき指の部分が右では“ノ”に左では“一”となったが、最初に指(1)次に腕(2)を書く順は変わらなかったからといわれている。

漢字、右左  図1

右左は、上下・前後とともに自己を中心として方位を指す“相対指示枠”を構成し、地球を中心とする“絶対指示枠”である天地・東西・南北とともに方向を示す言葉として広く使われている。一般に前後左右は近くの目標を指す時に、東西南北は遠い目標を指す時に使われる。近くを指す右・左のついた地名は珍しく、京都にだけあるが地図の右側に左京区、左側に右京区がある。これは御所で南向きに座られた天皇の視点で右が右京、左を左京と呼ばれたことに起因し、北を上に書く地図では左右が逆となる。これは、御所に向かって右に左近の桜があるのと同じ理由であり、視点で変わる右左の逆転には注意を要する。

右左は回転方向にも使われ、時計の針の回り方を右回り、その逆を左回りという。時計を右回りにしたのは、北半球の日時計が右回りになることに起因している。図2のように、螺旋は右に回りながら進むものを右螺旋(プラス螺旋())、左回りを左螺旋(マイナス螺旋())と呼ぶのが通例である。ところが、右螺旋の朝顔の蔓が植物図鑑では左巻きと記されている。これは、植物の分野では成長方向から見た弦の巻き方で右左を決めるのが伝統のためであり、ここでも視点の相違による左右表示の逆転が見られる。よく似た理由で右螺旋の縄が左縄と呼ばれている。

尚右(しょうう)、尚左(しょうさ)という表現がある。尚右は右を尊いと見る考え方であり、キリスト教・イスラム教の地域、インド、アフリカなど手で食事をする地域など世界の大勢は尚右である。そのなかで中国では古くから王朝の変遷で尚右・尚左が入れ替わり、文化の規範となった儒教が尚右、道教が尚左など、両者が混在し臨機応変に右左使い分けが行われて来た。日本では神代は尚左であったが、奈良朝時代に尚右が中国から導入された結果両方が混在し、左顧右眄の日本人を生んだともいわれている。

  図2 螺旋、渦巻きの表示

人は左右にある脳、耳、目、手、足を使い分けている。特に手は時代、種族に関係なく93%の人が右手利きのため、人類が右利きに大きく偏った社会基盤を構築していく結果となった。
物の形を鏡に映すと、実像と鏡像の重ね合せができない急須のような形(鏡像異性体)と、実像と鏡像が重なるコーヒ茶碗のような形がある(図3)。前者の実像と鏡像は右掌と左掌の関係に対応することから、この形態的特性をキラリティーChirality(掌性、ギリシャ語の掌Cheiroから作られた造語)と呼び、キラルな形という。一方後者はキラリティーの無い形の意味でアキラルな形という。右・左はキラルな形の表示にも広く使われ、人が使う道具等では右利きの人と相性が良い方を右形、相性が悪い方(左利きの人と相性が良い)を左形と命名している。人類の93%が右利きであるため、人間社会で生産、利用、消費されるキラルな設備、道具類の殆どは右形だけで事足り、この効率の良さが人類の技術文明を発展させる大きな要因になった。

  図3

分子の世界のキラリティー

分子にも多様なキラルな形が存在することが知られおり、そのうち大勢を占めるのは不斉炭素を持つ化合物である。キラルな分子の鏡像体も右左の概念で表示され、古くから用いられてきた糖、アミノ酸に便利に適用されるDL表示と1960年代にIUPACで導入されたあらゆるキラルな分子に適用できるRS表示の両方が使われている。図4でアラニンを例にRS表示の手順の概要を示す。アラニンではLがS、DがR型に相当する。 

  図4

キラルな化合物は、旋光性を持つ100%右又は左形鏡像体分子から成る光学活性体か、旋光性の無い右左鏡像体半々から成るラセミ体としで存在し、前者は生物の生産物、後者は化学合成品である。この事実は生命が右利きの人間社会以上に厳密な片手利きである事を示すもので、生命活動を支える蛋白質が左形アミノ酸で構成されるキラルな巨大鏡像体分子であることに起因する。蛋白質が生産するキラルな化合物は蛋白質のキラリティーと相性の良い鏡像体から成る光学活性体であり、蛋白質に作用するキラルな生理活性物質の分子は蛋白質のキラリティーと相性の良い鏡像体のみで、逆の鏡像体は不要、時には有害な異物となる。ラセミ体で供給され一方の鏡像体が起こしたサリドマイド薬害事件は有名である。これを契機に化学技術で光学活性体の生産を目指す光学分割、不斉合成等の技術開発が活発になりノーベル賞も含め多くの優れた成果を輩出した。とはいえ現在の化学技術は医薬品など付加価値が高く、かつ生物から得られない光学活性物質の生産に何とか対応できている状態であり、生物にはとても及ばない。

最後になったが分子の右左と生命の関り合いは、生物を支える蛋白質や糖などが、すべて植物による太陽エネルギーを使う方法で生産され、合成化学の手の届かない光学活性という割符で動く食物連鎖として供給されていることである。人間も生命の片手利きから逃れられない生物の一員である事を強く認識させられる。

              (図は講演資料より転載) 

文責 藤橋雅尚  監修 田井 晰


著者プロフィール 著者
> 
主な経歴
> 
資格
> 
その他
>